ついでなんで。

同様の件で、興味深いと感じたページを掲載しておきます。

時代遅れの改正教育基本法【後編】
〜バブル期の思考が未来の日本を損なう


「バラバラな個人」か、それとも「愛国心や道徳」か、という二分法的な議論の仕方がそもそも間違いだ、と思うんですよ。「バラバラな個人」に対置されるべきものが、「愛国心や道徳」だ、というのが短絡だと思うんです。


まったくだ。一元的な価値や道徳的基準を持ち、ただ1種類の「正しさ」しか認めない宗教団体の人や、その団体にかかわりのある人、現人神を信奉している人とかに教育を語らせると、そういうことになるんじゃないのかなーと思った。

安倍総理と新興宗教団体「統一教会」との深い関係

安倍総理の祖父・岸信介は、『統一教会』本部と隣り合わせに住んでいた。そして、『統一教会』系の政治団体国際勝共連合』の設立そのものに関わっている。

自民党』は岸信介の時代から、笹川良一ロッキード事件の児玉らと共にアメリカ〜欧州の軍産複合体と非常に深い関わりを持ち、戦後を通して『統一協会』の資金で活動してきた。
統一協会』は古くから共和党の最大級の資金源でもあり、『統一協会』の大祭には必ずブッシュ親子からの祝電が届く。


だそうで。同様の指摘は、他でもけっこう見かけました。

ハリーに揺れる米キリスト教原理主義
ハリー・ポッターへの反発が映す米国政治の構図


統一教会キリスト教原理主義、ただしバチカンからはカルト視されているらしい。
が、法王が代わったからな。見解も変わったりして。
それにしても、ただの児童書にここまでむきになるのもどうよ、という気がしますが…。

反フェミニズム


統一教会も「オニババ化する女たち」の著者、三砂ちづるさんも、反フェミニズムに分類されていた、んだが。
こないだ見たときと比べると、ずいぶん内容が変わった&減った。たぶん、中立的ではない観点に基づく疑問が提出されたんじゃないかと思われる。


オニババで思い出したが、

統一協会 ボディコントロールの恐怖―「新純潔教育」の正体


アマゾンに載ってたこの本の商品説明は、これ。

内容(「BOOK」データベースより)
「ボディコントロール」は実は「セックスコントロール」。統一協会の「新純潔教育」の正体を暴く。

内容(「MARC」データベースより)
現代の性教育の絶対条件は、科学的であること、そして人間の尊厳と自由を大切にすることである。この基準に照らして統一協会の「新純潔教育」がどんなにひどいものであるかを理論と実践の両面で明らかにする。


未読のため、ボディコントロールが一体何なのかしりませんが。
どうやら反フェミな人々は、身体性を重視するという共通点があるらしい、と推察。
一時期、オニババ本以外にもなんだか身体性を重視しましょう系な本が出まくってたような記憶があるが、もしかして反フェミさんによる仕手ブームだったのかな、という気がしてきた。

巨大聖地を完成させた統一教会王国

冬のソナタ」のロケ地にもなったスキー場「龍平リゾート(通称“ドラゴンバレー”)」も統一教会の所有地で、2003年に統一教会系の世界日報社が買収。まさに日本で韓流ブームが起きる直前である。このリゾートでチェ・ジウの“合同ツアー”が行われたり、“第二の冬ソナブーム”を狙ったドラマ「悲しき恋歌」の撮影にも利用された。


正直、ほんとに韓流ブームがあったのかどうか疑問に思う今日この頃。韓流も仕手ブームだったのかな。
韓流がブームだとニュースなどで騒がれていた頃、冬ソナが大好きって人どころか冬ソナを観ていた人すら、私の周りにはいなかった。私も当時は見てなかった。民放での再放送は一応観てみたが。
そういえば、アッキーは韓流ドラマが大好きだとか。


このほか、ID論関係。

米連邦地裁「公立校での知的計画(ID)説教育は違憲」

キリスト教根本主義による自然史博物館が開館
ttp://wiredvision.jp/blog/fromwiredblogs/200705/20070530132549.php


このほか、URLを控えていたはずなんだが見つけるのが面倒くさくて断念しましたが。
日本でID論な研究をしている人は、たいてい統一教会系の研究者団体に所属している人だ、という指摘をしているページがあったと記憶している。見つけ出せたら追記します。

日本でも学習指導要領の変更により中学の理科教科書から進化に関するものが消えた、とかいう指摘を見かけたんだが、ほんとかどうかは不明。


他にも色々知りたい方は、各自ググって各自の自己責任で情報を取捨択一してくださいませ。


それにしてもなんかこう、宗教右派的ものの考え方が知らず知らずのうちに、ゆで蛙的に国内に浸透していきそうで、ちょっと不安ですよ。

信仰は自由。だが、画一的な考え方の集団、多様性をなくしてしまった集団っていうのは、もろいんですよね。
誰も彼もが同じ考え方をしていると、何か問題が発生したときにみんなで仲良く頭を抱えてしまって打開策が見出せなくなるとか、重要な局面でみんな揃ってミステイクしてしまうとか。
故に、集団内に多様な個体が存在する、というのも自然の摂理だと思うんだがな。
なんで「個性」を奇習と捉えてしまうんだろう。
と、以上は独り言なので、宗教談義なコメントはご遠慮ください。